自戒のエッセイ

エッセイ

「一人の邪魔者の常に我身に付き纏うあり、其名を称して受験と云う」

太宰治『パンドラの匣』

現在、私は心理学部生として日々研鑽を積んでいる(積んでいない)大学生なのですが、来年度に大学院試験を控えている身としてはそろそろ本格的に進路選択を行い、勉強を進めていかねばなりません。

元来、大学院試がどうのこうのといった悩みは非常に贅沢なものであり、悩むこと自体が特権性を透明化した加害に同等な所業であるため、あまりグチグチと陰湿に文章を書き連ねるのは控えるべきですが、さりとて私はそこらにいるしがない学生。故に人並みに悩み、人並みに苦しみます。ですので、人知れぬ場所、地球の端っこでボソボソと意味の分からぬ人間が、意味の分からぬことを宣っていきたいと思います。

私は受験勉強というものが昔から好きではありません。「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。」という王貞治の言葉は有名ですが、こういった”過程の否定”を含む発言は須らく結果主義者のポジショントークに過ぎません。大抵、こういった言説の裏には「俺は苦労して頑張ったんだ!だから俺を褒めたたえろ!」といったパワハラ的な要素を多分に含んでいると思われます。部活によくいた”ウザい先輩”と似たようなものです。一定の支持を得ているこの言説のせいで、努力によって精神をすり減らし、適応障害や不安障害などの疾患を抱えることも現代では少なくありません。はっきり言って終わってます。

厄介なのはここに「人格的な否定」が加わることです。必死に努力をしても報われなかった人が「お前は努力もできない怠け者だ。体たらくな人間だ。生きる価値のないゴミだ。」と言われたり、あるいは実際に言われなくともそういった雰囲気を社会風潮として感じたりします(特に男性社会ではこの傾向が強い・・・)。

私の大好きなネット活動者である黒髪ピピピさんが動画内で以下のようなことを仰っていました。

僕も含めた人間の大多数は連続起業家でもない、一流の創作者でもない、偉大な研究家でもない。つまり何物でもない凡庸の民だから、どこかの誰かを踏み台にして、生け贄の羊として、「俺はまともな側だ!」って叫び続けなきゃ、自己存在証明ができないちっぽけな動物なんだよ。一言でいえば、誠に哀れな生命体。

黒髪ピピピ様(https://youtu.be/G8xM7f3lS24?si=omsFgen0CyuvM6cK

自分を証明するために人はスケープゴートを欲する。これは私自身、何度も経験したことであるが故、非常に共感できる言葉であり、的を射ていると思われます。櫓の上から軽蔑の眼差しと共に、人様の努力についてどうのこうの評価するような人間は、一重に下方比較を通して自分の偉さを喧伝し、存在の承認を渇望している。腐敗した錦の御旗で迫害という蛮行。黒塗りの道徳の教科書で学びを得た愚民*1。

個人の能力は遺伝と環境の相互作用によって形作られるとされています。いくら遺伝的な素質があったとしても、不適切な環境ではその素質を引き出すことが困難となります。その逆も然りです。

ですので、個人の能力を最大限に発揮するためには下地となるベースが必要不可欠なものであり、いくら足掻いたとて報われない努力は必ず存在します。

翼の欠けた鳥は空を飛べませんし、籠の中に居てはそもそも飛ぶ場所がありません。ですが、彼ら彼女らが”空を飛ぼうとした”という事実は確かに存在します。資本主義・競争社会のシステムに毒され過ぎてはいませんか?私の思想は甘ちゃんなので、願望を大いに含みますが、結果だけではなく過程も大切にすべきだと考えております(というか過程を否定され、加えて人格までもが否定される世の中なんてあまりに悲しすぎる)。

自戒の意味を込めて、精神病むぐらいだったら努力なんてしなくていいです。厳密にいえば、精神を病むほどの努力は努力というよりも自己破滅。近視眼的に人生を捉えるのであれば破滅的な行動は輝いて見えるかもしれません。しかし、それは刹那の閃光、零れ朽ちゆく線香花火。どうせ長生きするのですから、後戻りできない努力はやめときましょう(心の病は一朝一夕で治るものではありません。後になって”本当に”後悔します)。木を見て森を見ず、執着と虚栄が映し出すその姿は、自愛を知らぬ愚か者。脆弱で矮小な自分を素直に愛そう。

学校生活や受験の時もそうでしたが、昔から強迫的に物事に取り組むことが多く、不安が更なる不安を生んで、視野が狭窄した結果、負のスパイラルに陥り、精神世界が妄りに乱れ、無気力に日々を消費することが多かった。

数年経った今では「あの頃の自分はどうかしていた」と反省することができますが、当事者の見る景色は常に当事者にしか開かれません。「おかしい」ことを「おかしい」と気づけないのです。この状態の人間は自閉的になりがちなので、インターホンの壊れた家の住民のように、他者のチャイム(助け)にすら気づけず(あるいは拒絶し)、より深い泥沼へと誘われ、堕ちに堕ちてゆき戻れなくなる。

大学の最終学年なんだけど、今って急にスイッチがパチンッと切れた瞬間に、人生において実現しうるすべての正ルートから逸脱して完全な誤ルートに入ってしまう状態に至ってるから、本当に凄い。1年、いや1ヶ月でも駄目だったらこの後50年ぐらい駄目になるという感覚がずっと続いている。— 𝘴𝘭𝘪𝘮𝘢𝘭𝘪𝘻𝘦𝘥 (@E6E0DB) August 21, 2024


それもそのはず。現代社会では一度の失敗すらも許されない。正道から道を外れれば復帰が困難となり、恥辱と後悔と自責が生み出した濁流に呑まれ、自我が摩耗していく。人間が脆い生き物だってことを忘れたのかこの社会は。

自分の世界に生きる指針を形成したい。白黒思考ではなく、堕落と勤勉の中庸を許してあげたい。常々思うが私は紛れもなく弱い人間だ。それにも関わらず、「強くあらねばならない」という現代に蔓延るマッチョイズム的な男性性の呪縛に付き従い、つま先立ちで歩いた結果、実像と虚像の乖離が起こり、深いため息をつき、出ぬ涙と共に泣く。己の弱さを認めてあげられるような人間になりたい。

努力というのは「我慢すること」や「他人から良い評価を貰うこと」だけとは限らない。疲れたら少し休んで、自分を見つめ直していくことも、立派な努力のひとつだ。

考えるOL『がんばらないことをがんばるって決めた』

正当化と弁解の要素が織り成す文章に思われます。未だに確信が伴わないですが、私の生き方としては恐らくこの考え方が必要で正しいものなのでしょう。いつの日かこの文章が本音として自己に浸透していくことを願っております(願うだけじゃ現実は変わらない)。

※1
といっても背景事情を汲み取れば責めることも難しくなる。「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」といったいわゆる根性論の歴史が集積した結果、教育においても未だにこの考えは根深く残っており、子供のころから鋳型にはめられて生きねばならない。故に罪を辿れば、現代を生きる彼らではなく、この文化を構築した先祖にまで遡ることとなる。だから誰にも罪はない。罪はない故に感情のやり場がない。

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